こちらははと(@810ibara)さん主催の「ぽっぽアドベント2024」の記事です。
12月14日担当安琦です。昨年に続いて、ぽっぽアドベントに参加させていただきます。実は2年連続参加は初めてです。参加を決めてからほかの参加者の皆さんの顔触れの豪華さにビビりました。昨日はかかり真魚さん。ドストエフスキー!読書会!行ってみたい!でも敷居が高いと枠を作っちゃう世界の素敵なお話です。
さて、今回のテーマは「枠を壊せ!」
かっこいいテーマだ。去年よりさらにパワフルに、今年は「壊し」に行っちゃうんだね――そして考えました。わたしにとっての枠とは何か。わたしはそれを壊せたか。考えるまでもありませんでした。わたしの周りは「日々のルーティン」という厚い枠に囲まれていました。「日常を回す」という役割を持ってしまってから長い時間をかけて築きあげられてきた枠と言うより壁!簡単に壊せるものではない。回さなければならない日常は、家における家事労働と育児の負担9割、非常勤だが1日8時間週5.5日の労働――こう聞けば日々のルーティンはすでに出来上がっていることが想像できるでしょう。日々は過ぎ、子は成長し、おむつ替えやら寝かしつけやらは不要になったが、だからといって面倒ごとがすべて消滅ってわけでもない。今年のハイライトは子①が年1回の恒例である骨折を隠して部活して学校で問題になったことと、子供は2人のはずなのに学校とか塾の面談が5週間で7回あったこと。ぼんやりとしてお弁当を作っていて、DKがちっちゃかわいいJK弁当を食べ、JKが友達と2人でDK弁当を片付ける事故も起こった。慌ただしく過ぎる中での仕事家事お子様関係をなんとか円滑に回す日々……まあ我が家のような家は少なくもないだろうと思う。そして、最近のわたしには「日々のルーティンを滞りなく遂行するためのルーティン」という新たな枠が必要である。その理由はほかでもない、体の「なんとなく不調」が日常になってしまったから。中年、徹夜できなくなった程度では全く済まない。寝ないとだめだけど眠りは浅い、めまいはしょっちゅう、二日酔いの朝みたいな体のだるさと重さ。この「なんとなく不調」を抱える日々はどこか平均台をそろそろと歩くが如き不安定さがある。そして、その平均台の上、ちょっと着地を間違えたり、調子に乗って高くジャンプしたりしようとすると、己の力不足を嘲笑うかのように床に落下してしたたかに体を打ち付けることになる。本格的体調不良が襲ってくるのだ。年取って体力なくなるのは当然、だが、その当たり前と折り合いをつけていくのってそう簡単なことではない。できることとできないことをひとつづつ試して知ってゆき、やりたいこととできることの間に妥協点を探る作業が続く。そして、この「なんとなく不調」を「起き上がれない不調」にしないための努力が必要だってことを思い知らされる。わたしには日常のルーティンを滞りなく遂行するための(倒れないための)ルーティンが必要になった。失敗と経験を重ね、いくつかのルーティン(6時間睡眠死守、休日のうち一日は家で一週間分の弁当と食事の下準備と翌週の仕事準備を終えておく、とにかく筋肉!絶対運動!など)を作ることにより、低め安定をなんとか維持する日々。
さてそんなルーティンでがちがちに固められているわたしが今年の春、そのルーティンの枠を大きく飛び越えてみようと思った。壊せないので飛び越える。飛び越えて何をしたかって?
家出です。
実は子供が生まれてから、泊まりがけで一人で家を開けたのは実家に不幸があったときだけである。ほぼワンオペ育児(実家は全く頼れない)で、泊りがけで一人で出かけようという経済的余裕も時間的余裕も心理的余裕もなかった。窮屈な日々から逃げたいときはたまに一日ふらっと家を空ける。まあこれで満足するか、みたいな日々をかれこれ17年送ってきた。
そんなわたしが家出を決めたきっかけは今年2月、受験生の子②を見ながらふと気がついたからだ――こいつはもうすぐ義務教育を終える、つまり我が家、子育てのセカンドステップくらいまでを完了するのでは?セカンドステップって簡単に言ったが、結構すごいことだ。赤子二人を抱えて今振り返ると全く記憶のない数年+永遠に終わらないかと思った夜泣きやらイヤイヤやら、それが終わると毎日のようにかかってきた学校からの電話に胃を痛くし、その後は思春期の心理戦。義務教育という社会的枠組みに今までなにかを感じたことはなかったが、改めて認識すると、その枠から抜け出そうとしている子のこと、彼らの生に力を貸した自分のことを思った。そしてこのちょっとした区切りに、なにかを形にしたくなった。そこで、早速家族に宣言した。「子②の中学卒業を待って、母、数日家を空けます。一人の時間を過ごしたい」と。
一瞬渋られた。が、それが「ごはんどうするの?」でなかった(「楽しいことはみんなでやろうぜ、母!」)あたりは評価したい。そして短い説得ののち、子は合意した。「確かに母は家出してもいいと思う。俺の子育てが世間一般より大変だったのは理解できる」子①の言葉である。いや、まだ終わったわけではないけどな。
最初は一人旅のつもりだったが、家出がうれしくて人に話したら、毎回フットワーク軽すぎるフォロイーさんがじゃあ一緒に旅行しようよと言ってくれた。
ここで家出の色合いが変わった。フォロイーさんとお泊り、というのは、TLに流れてくる「自分には遠いなと眺めているだけのなんだかとにかく楽しそうなこと」のひとつであり、旅先でどなたかにお会いしたりするのとはまたちがった趣がある。なにより一緒に過ごす時間が長いしね。あれよあれよという間に「家族から離れ」「フォロイーさんと泊まりがけでお出かけ」というまさかの「やってみたいけど無理じゃない?となんとなく思ってた二大欲求」が突然実現されることになる。静かな興奮にわたしの胸は震えた。家族以外の誰かと旅行する、という感覚をすっかり忘れていたので、計画段階からそれはそれは新鮮だった。チャットしながらホテルを決め、フライトを決め、お互いそれぞれチケットと部屋を取り、何をして過ごすか考える。食べたいものや行きたいお店をピックアップしてゆく過程からもう楽しくてしょうがない。
そして3月某日、わたしは普段のルーティンの枠をぴょーんと飛び越え、飛行機に乗った。わーい。
行先は沖縄。去年突然わたしを新世界に連れて行った映画「スラムダンク」の主人公宮城リョータの生まれた土地である(突然この映画に落ちた経緯は去年のぽっぽアドベントに)。続いている熱のまま、映画の舞台と思われる場所を巡り、せっかくだから沖縄アリーナにBリーグも見に行こうということになった。意図したわけではなかったが、ちょうどその週にホームゲームが開催されていたのは、今振り返ればものすごい偶然だったのだが、その時は知る由もない。
↑これはやりたかった…。
端から見れば、奇妙な二人組の旅に違いない。フォロイーさんとは年もだいぶ離れているので、お二人のご関係は? と聞かれた。職場の同僚?え?違うの?なに?と尋ねられ、ただの友だちです、と答えた。しかしただの友だちでも、見ている妄想の世界が同じ友だちだ。話したいことが止まらないどころか、二人で見る世界はより広く深くそして思わぬ色をまとう。溢れ出た思いを受け止めてくれる人がいる。同じものを見ても、そこで語るものは一人で(あるいは妄想を共有せぬ人と)見るのとは全く違う胸の高まりと充足感があった。同じ趣味を持つ、妄想を共有できるオタクと旅するってこんな感じなのか。なに、世の中のみんな、すっごい楽しいことしてるんじゃん?
そうして、二日目の夜、その熱い興奮と大きな妄想を抱えたまま、沖縄アリーナに向かった。わたしは運動が嫌いな中年で、スポーツ観戦など長らく世界の裏側にあるくらい遠いものだった。映画スラムダンクを見てからやっとバスケのルールを理解し、生のバスケが見たいという意志を持ってBリーグ観戦をしたのは去年というバスケ素人だ。フォロイーさんに誘っていただいて見た河村選手のプレーに雷に打たれたような感動を覚えたが、やっぱりまだバスケにも、Bリーグにも、選手にも疎かった。せっかくだからアリーナで試合見とこうかって思ったきっかけだって「宮城リョータはバスケ留学の後帰国して、Bリーグの選手になるね。それも絶対沖縄のチームだね」という妄想からである。しかし……結果、妄想から新たな扉が開いた。
Bリーグの試合を去年見た青学の体育館イメージで想像していたわたしにとって、沖縄アリーナは衝撃の連続だった。まず大きさからして全然ちがう。そして「きみたち、アリーナに来たんだったら、いっぱい楽しんでいきなよ~」っていうしかけがたくさんあった。まず正面に琉球ゴールデンキングス(沖アリはキングスのホームアリーナである)のグッズショップがある。無駄に商品が多くて、選手の顔も名前も知らぬ素人だが、めちゃくちゃ楽しく見学した。アリーナも広くて新しくてきれいで、もうそれだけで気分が上がる。アリーナのコートの床面には大きなヤシの木が描かれていて、それが南国情緒をそそるし(この位置からのディープスリーがココナツスリーと言われて有名なこともその時は知らなかった)、中央ビジョンに流れる選手紹介もすっごいかっこいいので、選手知らないけどキングスのファンになれる。
試合が始まってみれば、応援がめちゃくちゃ独特。指笛がそこらで鳴ってるし、オフェンスの沖縄民謡っぽい三線の音に体が揺れる。ミリしらでも十分ハッピー、ビール飲みつついろいろ楽しめるエンタメ空間。もちろん妄想も忘れないので、頭も体も忙しい。現実と妄想が重なり合って怒涛の勢いで私たちを包み込む。なーんにも知らない二人が試合が終わるころには「沖縄最高、アリーナ最高、Bリーグ大好き、キングスファン秒読み、てかもうファンになった。今すぐもう一回試合見たい」と興奮した。試合の翌日には街にあふれるキングスの広告を写真に撮り、キングスの選手の名前が何人か言えるまでに知識を深めていたし、頭の別のところでは妄想が渦を巻く。
↑空港で見つけた広告
寝る間も惜しんで酒を飲み、しゃべり倒し、新しい刺激で頭と腹をいっぱいに膨らませ、3泊の旅はあっという間に終わった。家族にもほとんど連絡せず、わたしは「枠の外」にいた。思った以上に自由で心の軽くなる旅だった。自分以外の年少の誰かの行動や安全に(求められていないと言われたところで)気を配ることから解放されるということは思いのほか体を軽くするのだと知った。そして妄想が開けた新たな扉の新鮮さよ!この旅で開けた扉はそのまま今年開けっ放しになり、代々木とか横アリとか有明とかでもバスケやバレーを見るチャンスに恵まれた。
家出、大成功だった!!!
3日の旅を経て、わたしはまたルーティンの枠の中に戻った。世界が変わりましたとか、今までと違った自分がいますみたいなことにはならない、もちろん。それでも振り返って気づかないわけにはいかなかった。わたしは出産してからずっと、枠を飛び越える余裕がないままここまで来た。窮屈な日々だと思っていたが、それでも細々開けては閉め、開けては閉めしていた扉を枠のあちらこちらにいっぱい作っていたのだなと。ぴょーんと飛び越えたって思ってた旅はその延長線上にあったのだった。一緒に行ってくれたフォロイーさん、スラムダンクの世界、バスケ……どれも突然降ってわいたものではない。
たくさんの扉=心の余裕であり、糧となる。それをわたしはもう十分知っている。過去、妊娠した30代のわたしに「とにかく仕事を続けて子育てとは別の世界を常に持ちなさい」と言ってくれた人生の先輩がいた。その時は一極集中がよくないのかなくらいに思ってたけど、今は彼女の言いたいことがわかる。日々を過ごす場所とは別にどこかに通じる扉をたくさん持つことはおだやかに心の余裕を持って生活を送るうえでとても大きな意味を持つと思うのだ。たくさんの好きやら、推しやら、時間を忘れて楽しめるもの――それらは、ちょっとつらかったり苦しかったりする自分を救うものものになる。そしてそんな扉は多ければ多いほどいい。環境や自分の置かれた状況やらで何かひとつが楽しめなくなっても、別の扉を開ければ心を温めることができるから。そうしてその好きがまた新しい好きを連れて来るかもしれない。
ここまで読んで「数日まとめて家を空けたのがそれほど(「枠を壊す」のテーマになるほど)重大なことなのか」と首を傾げたみなさんにはそのとおりなんです、と返したい。わたしは過去の社会やら慣習が作り上げた価値観(これこそが枠である)にノーを言わず、壊そうと考えることもせずに過ごしてしまった。いまさらそんな日々を悔いても元には戻せない。作ってしまった枠をばかげたことだと切って捨てることもしないだろう。だから自分の周りにそういう社会通念やなんとなく作られていう価値観の枠みたいなものを作らずに済むならば作らないで、好きなように生きられるならそれが一番だと思う。そうしてその自由を享受してほしい。
でも、もしかして、わたしのように長い時間のうちに勝手に築かれてしまった枠や、あるいはなにかの事情で枠の中にいやおうなく留まっている人がいたとしたら……たまに枠の外に出たり、それが無理でも扉の向こうを眺める時間と心の余裕があるといいなと願ってる。枠の外に出るチャンスは、たとえ今はなくても将来やってくる。その時のために体力温存して好きをいっぱいためておこうよ。
枠の中の空気だって悪いものばかりではない。だけど、枠の外の空気もまたすっごく気持ちいい。そうだよね?
明日の担当はばっこさんです。えっと…告白します。ばっこさんの不汗党の二人、すきです。どんな記事が飛び出すか楽しみにしておきましょう!